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私の居住している地域は滋賀県西部のびわ湖畔大津市北部下図斜線部分に位置しております。

このホームページでは地域の紹介や私の趣味等について記述しています。2023年も8月になりました。最近はページ更新の頻度も少なくなりました。近況は雑記ページをご覧ください。コンピューターの操作ミスでデーターが消えてしまい、2021年のバックアップしかなく一部古くなっています、雑記とホームは修正済みです。順次更新予定です?

 

老化による目や耳の病気に関する事項や種々の情報に関してホームページを別に開設していますので下記のボタンから是非これらのホームページも訪問ください。

 

 

私の住む地域の最寄りのJR駅は湖西線小野駅である。駅名の由来は定かではないが駅の近くに7世紀前半から活躍した氏族である小野氏の本拠地に近いことに由来すると推測される。

小野氏は遣隋使となった小野妹子が有名であるが、漢詩や和歌に優れた小野篁(おののたかむら)(802~853年)は参議にまで昇っている。篁の孫で能書家で三筆として知られる小野道風も有名であるが、その他多くの官僚武人を輩出しています。

 

金森家の先祖につい

先祖は九州北部の龍造寺の家臣であったようであり、後日黒田藩に仕えていたようであるが戦時中に系図も消失し、子供の頃父から話を聞いた記憶はあるが詳しくは覚えていない。

祖父は金森甚助と言い、今で言う右翼の思想家であったらしい。父の金森嘉助が須恵焼(注1)の技術に長じ、福岡藩の御用を勤めてその竈元であったことから廃藩置県後、藩業の須恵焼竈を払い下げ独立経営していた。(注2)

その後甚助は福岡にガラス工場経営、後ウラジオストック、でガラス、洋灯販売で三巴商会を興し、日露戦争時居留民引き上げに尽力したようである。『東亜先覚志士記伝』の金森甚助(明治3年6月21日~大正10年9月3日)の項の記述によると、ウラジオストックで柔道場を開設していた内田良平と日清戦争後にして満州シベリアの情報収集に取り組んでいたようである。

 

注1) 須恵焼須恵焼は現在の福岡県糟屋郡須恵町上須恵(皿山)で焼かれていた磁器を指す。焼成期間は宝暦14年(1764)から明治35年(1902)頃までと推定される。1江戸期に2期間の須恵皿山役所設置時代を持ち、筑前福岡藩磁器御用窯であった。須恵焼は当初から藩営の御用窯であり、藩専属の陶工が藩の保護のもとに生産に当たり、販売も藩が独占していたので、廃藩置県で土台から崩れ、廃藩置県後、藩業の須恵焼竈を払い下げ独立経営していたものもいたが、最終的に明治35年頃には生産中止となった。

注2) (筑前の磁器 須恵焼 年表 須恵町歴史民俗資料館)